泉和良『エレGY』

 まずはじめに
 本書は私にとって最高の1冊でした。面白いか?面白くないか?で言ったら普通。好きか?嫌いか?で言ったら超好き!な1冊と思います。特に「人と違う生き方をして、家賃を滞納したり電気やガスを止めらたり郵便局を首になったり彼女いないけど焼肉をおごってくれる友人がいたり、たまに近所のお年寄りと趣味の囲碁をやったりする初心者」にお勧めの作品であります。すなわち、決して万人向けに作られた大衆文学やら娯楽作品ではない恣意的な思い出のアルバム。だが、それでいい。それがよかった。こんなストレートな駄作で問題作を待っていました!(この場合の駄作は誉め言葉に属します)

 なんていうんでしょう、佐藤友哉の『世界の終わりの終わり』みたいな主人公と『電波女と青春男』のエリオを黒髪にしたようなイメージ?イラスト入りの文庫本を知らない私には、最初そのような先入観で読み進めてしました。憎めない自業自得のフリーゲーム製作者。その日その日の生活費にも困り、元カノの呪縛にも悩まされる徹底的にダメな悪環境に身を置きつつも、『NHKにようこそ』のような単純に引きこもりのダメ人間というわけではないところがミソです。いや、まァ冒頭からパンツ発言でやらかしてくれましたが(汗)それでも感情移入のタガが外れるまで10分と掛かりませんでしたよ。それとヒロインのエレGYに関して、私はリストカットの自殺常習者ってなんか痛い子みたいな偏見を持っていましたけど、小気味よい罵詈雑言と敬語でこんな裏表ラバーな感じのヒロインは久しぶりでした。脳内彼女でもヤンデレでもない。ただちょっと使用言語が中二病というだけの普通のJKなのですから、これは間違いなく血の通った本物の人間だと思い込むことができました

 この、限りなく二次元に近い三次元的な臨場感!

 作中のメール描写について
 少なからず携帯電話やパソコンを介したメールのやりとりが挿入されます。エレGYの「人間らしさ」がこれでもかと詰め込まれている大事な舞台装置です。それこそヤンデレの病んでる表現にありがちな、例えば『Myself ; Yourself』の届かない手紙も同じようなものなのに、メールだと印象と実際の手間とのコスパ安いので偏執狂に見えないですね。むしろ礼儀正しさやハイテンションやら、その日そのとき1行先のエレGY像がだんだん本音になっていくあたりとか、ええと、つまりですね。「メールのやりとり」は横向きでもいい気がしたことだけ追記しておきます。それかいっそ『みすてりあるキャラねっと』とかオンライン小説みたいに全部横書きにしてもよかったんじゃね?そっちのほうがインパクトあるし、いまどきっぽくて乙一氏いわく「小説の進化する瞬間」とやらが一発でわかったような気もするけど(笑) 

 乙一氏のコメント
 小説の進化する瞬間を見た。紙に印刷されているこの新しいものはいったい何なのか。今、自分たちが呼吸している文化はたしかにこういうものだ。これまで読んできた小説の文体はすべて一昔前のものだ。かいま見える書き手の知性。詩的につづられる、まだ言語化がなされていない遠くの地平。感動。興奮。嫉妬。想像では思いつけない鞄の中身。ノンフィクションの真実味。理不尽な展開になろうと受け入れざるをえない。「死」のイメージは、明確なバッドエンドの設定。どこへ着地するのかと、綱渡り感に魂がひりつく。読者は僕たちではない。たぶんたった一人の少女にむけて書かれた。これは小説という形式でプログラムされた「愛」。

 滝本竜彦氏のコメント
 私が泉知良さんの作品に初めて触れたのは数年前のことである。ある晩、泉さんの手によって創られたUNPOKOという前衛的音楽作品の宣伝映像をひょんなことから目撃した私は、足下が崩れていくような衝撃を味わった。私は取り憑かれたように何度も再生ボタンをクリックし、そしてまもなく確信した。この映像を作った人間は本物の天才に違いないと。それからの数ヶ月間、私は誇らしげに「ネットで見つけた凄い作品。間違いなく天才」についての情報を友人知人に触れまわった。会う人全員に泉さんの作品を薦めた。初心者にはやはりUNPOKOのプロモーションビデオが向いているだろうと思い、私は富士山が爆発する例の前衛的映像をiPodに入れ、身の回りの人々に次々と見せて回った。人々は驚き、呼吸を荒くして興奮していた。ムービーを観た者は皆「コ、コレは!」「凄すぎる!」「しかしなぜ富士山とうんこが爆発するのか?」「富士山がうんこの為すがままになるのはどうしてか?」「これはどういう仕組みのうんこなのか?」などと口々に言っていた。こうして大勢の人が泉さんの魅力のトリコになった。(実際、三人の人間が入信しました。)布教が一段落したあとも、私は毎日毎日、朝から晩まで泉さんが作るゲームをプレイしていた。泉さんが販売しているCDも全て購入した。オフ会に参加したこともある。泉さんが主催する平和島公園のアスレチック大会では大勢の若者がはしゃぎすぎて池に落ちていた。泉さんが主催するハードロックバンドLUPIAのライブも毎晩盛り上がっていた。泉さんはヒーローだった。何百作という膨大な量の作品を創ってきたそのスピード、熱量、己の無意識に従う勇気、憧れざるを得なかった。泉さんは呼吸するようにいつも何かを創っていた。結果よりも過程を重視しているようだった。ジャンプして墜落し、爆発し――そして今日もまた何か素晴らしい作品が生まれていた。今度の作品は小説だった。タイトルは『エレGY』。ということで泉知良さんの『エレGY』を読みました。前々から泉知良さんの作るゲームや音楽が大好きだったのですが、それを差し引いてもとても面白い小説でした。小説という慣れないメディアを扱うにあたり、相当の試行錯誤があったと思うのですが、ページをめくればついつい最後まで読んでしまうほどにリーダビリティの高い作品です。文章も新鮮で生き生きしてます。しかし何と言っても作者=主人公=フリーゲーム作家の生き様が面白い!フリーゲームを作ることに命を燃やす男の人生が描かれていました。刮目して読むに値する小説だと思いました。一ファンとして今後ますますのご活躍を楽しみにしております。本当に面白い作品でした。

 乙一氏の言うとおり「読者は僕たちではない。」であり、いわゆるエンタメな物語としての小説でもない。まさに「小説という形式でプログラムされた愛」なのだと納得できる仕上がりだった。まさに本文309ページの最後の1行のまま。そして滝本竜彦氏のような熱烈な信者でもない一般読者の私個人としては、これは日記というか自伝の類にカテゴライズされるべきものだろうと思いながらもエールを惜しまずにはいられない作品だった。そう、まるで自分自身と重ね合わせていろいろと似たような境遇を知っているとね。なんかもう我がことのように贔屓目になってしまう(笑)

 とまァ、しかし・・・

 もちろん全部が全部、すんごいわかるわかると手放しで主人公を応援したり感情移入してばかりじゃなく、は?そんなわけねーだろと首をかしげるところもありましたが。「みんな誰しも、ゲームが好きになれば、その製作者も好きになる」というのは、ちょっと狭量な私には理解できないファン心理でした。これは別にゲームに限ったことじゃなく、アニメとか漫画とか、それから小説にしても同じことで。あくまで作品は作品。商品は商品。作者は作者。たとえ受刑者が作った椅子でも椅子は椅子です。その作り手のパーソナリティは気にしないというか、だってそうじゃないと『るろ剣』が大好きだったのに著者の顔見たら幻滅したりとか、『テロリストのパラソル』読んで著者の藤原伊織が好きになったら、実は男だったとかって裏切りにあうとね・・・(黙祷)

 さておき
 本文に出てきた「ジスカルドの魔法」について

 「じす、まゆお、sismi 」など複数のハンドルネームを持つ主人公がそうであったように、twitterとかmixiとかブログとかネトゲとかニコ生とか不特定多数のコミュニティが無数にある最近では「ジスカルドの魔法」は現代病でもあるんじゃないかと思ったり。私は一身上の都合により改名をしていて、戸籍上の名前と旧名を2つ持っているけど、そのどちらも「私」であり「ボク」であるのだと気づかされた、という意味ではわかりやすいロールモデルとしても使えそうな話だったかも

 私は「読みやすい」反対派
 これは裏表紙にも同じようなことがあったけど、本書に限ったことじゃありませんが、小説を誉めるとき「読みやすい」ってよく聞くけど、それって本当によくわかりません。たしかに、エレGYはラノベみたいにあっというまに読了してしまいましたけど、ああ読みやすくて良かったなんて感想を言う気にはなれないのが私であります。種無しスイカより種のあるスイカのほうが好き。食べやすいカニカマより、食べにくい本物のズワイガニのほうが美味しいではないか?私個人的にはやっぱり「読みにくい」ほうが価値があるというかお得というか(笑)こと小説に関しては、漢字いっぱいボリューミィな京極夏彦とか、改行なきノンストップな舞城王太郎が大好きなので、そういう意味でもこのエレGYを推すようになって自分でも驚いている今日この頃です